LOGIN「あなたの料理を審査するより、完成させる方を手伝いたいからです」 煌は、迷わずそう言った。 「でも、神楽坂と九条の関係があるんでしょう。煌さんが私の味方をしたら、困るんじゃないですか」 「困るでしょうね」 あまりにもあっさり認められ、糀は言葉に詰まった。 「それなら――」 「私は、あなたを応援したい」 煌は、まっすぐ糀を見た。 「だから、審査はしません」 「……私の料理だからですか」 「あなたの料理だからです」 まっすぐに答えられ、また顔が熱くなった。 「あなたが八年かけて作ってきた料理と、澄江さんから受け継いだ店を、私は知っています。それを知らないふりをして、美咲さんの料理と公平に比べることはできない」 嬉しかった。 煌が糀の料理を信じてくれていることも、向こう側に立たないと言ってくれたことも。 「手伝うって、何をするんですか」 「祖父の遺品を、もう一度調べます」 「それだけで見つかるでしょうか」 「九条にも、まだ何か残っているはずです。そちらは私が探します。あなたは料理を作ってください」 煌は少し間を置いた。 「できた料理は、私が全部食べます」 思っていた答えと違い、糀は煌の顔を見た。 先ほどまで、煌は糀が作った料理を一口ずつ大切そうに食べていた。「この味です」と言った時の、幸せそうな顔も覚えている。 試作をするたび、煌がこの席に座るのだろうか。おいしい時は目元を緩め、違う時には何度も味を確かめる。その姿を思い浮かべると、さっきまで苦しかった胸が少しだけ温かくなった。 食べることが難しい煌が、糀の料理だけは残さず食べてくれる。 そのことが、料理人としてどれほど嬉しかったか、煌は知らないのかもしれない。 糀は、もう一度写真を見た。 「どうして、今まで言わなかったんですか」 煌はすぐには答えなかった。 「言えば、澄乃七献のためにあなたへ近づいたと思われる」 「私が、そう思うと?」 「はい……思いました」 煌は黙った。いつもなら糀から目を逸らさないのに、今は写真へ視線を落としている。傷ついたような顔をされ、糀の胸も痛んだ。 しばらくして、煌がようやく口を開いた。 「あなたに嫌われるのが、怖かった」 どんな問題が起きても顔色ひとつ変えず、冷静に対処する有能な経営者
「祖父です」 煌は写真へ目を落としたまま答えた。 糀は、写真と目の前の煌を見比べた。 若い頃の宗一郎は、煌ほど表情が鋭くない。それでも、目元や鼻筋はよく似ていた。 宗一郎はカメラを見ていない。七つの器を載せたお膳を抱く祖母だけを見て、笑っていた。 よく見ると、祖母の肩も宗一郎の方へ寄っている。 この二人はどういう関係だったのだろう。 「このお膳は、祖父が澄江さんへ贈ったものです」 「宗一郎さんが?」 煌は、写真の下へ古い便箋を置いた。紙は少し黄ばんでいたが、力強い字ははっきりと残っている。 《いつか、この七つの器に、あなたの料理を盛ってください。誰より先に、私に食べさせてほしい》 最後には、宗一郎と署名されていた。 糀はもう一度、写真を見た。 祖母が誰かにこんな顔を見せていたことも、料理を最初に食べてほしいと約束した相手がいたことも知らなかった。 「お祖父様と、祖母は……恋人だったんですか」 「そうだと思います」 煌はすぐには写真から目を上げなかった。 「祖父は、澄江さんの話をほとんどしませんでした。この写真と便箋も、亡くなったあとに遺品から見つかったものです」 「どうして、二人は結婚しなかったんでしょう」 「分かりません。九条が何に関わっていたのかも、まだ調べられていません」 祖母は糀にも、宗一郎のことを一度も話さなかった。 写真のお膳も、見た覚えがない。祖母は手放したのか。それとも、どこかへ隠したのだろうか。 「祖父は、そのお膳で料理を食べられないまま亡くなりました。七つの料理が完成したのかも、お膳がどこにあるのかも分かりません」 「それが、澄乃七献なんですか」 「祖父の手帳には、お膳の絵のそばに、その名が書かれていました」 糀は、以前読んだ祖母の手紙を思い出した。 《あの子に、あの味を託す》 あの子とは、煌のことだと祖母自身が書いていた。 「あの味って、これのことですか」 「はい。澄江さんが私に託したのは、澄乃七献です」 「どうして、今まで言わなかったんですか」 「九条との問題が片づくまで、あなたには店に集中してほしかった」 婚約のことも、澄乃七献のことも、煌は糀に何も知らせず、一人で片づけようとしていた。 「煌さんは――私を信じていないんですね」 煌が、わ
「え……」 糀の心臓が大きく鳴った。 婚約のことは、まだ何も解決していない。煌を許したわけでもない。それなのに、好きでいると言われて、嬉しいと思ってしまった。 こんな時まで嬉しいなんて、自分はどれほど煌を好きになってしまったのだろう。 返事をしたら、食事だけの契約ではなくなってしまう気がした。けれど、その言葉を取り消してほしいとも思えない。 何と答えればいいのか分からずにいると、医師と秘書が医務室へ戻ってきた。 その日は、答えを出さないまま煌と別れた。 翌日、店の営業中も、糀は何度も時計を見てしまった。 煌が来るのは閉店後だ。分かっているのに、引き戸が開くたび、そちらへ目が向いた。 食事だけの契約。その言葉を思い出すたびに、昨夜の告白まで一緒によみがえる。 仕事に集中しなければと思い、糀は包丁を握り直した。 煌は二日近く、まともに食べていなかった。いきなり重い料理は避けたい。けれど、病人のための薄い食事ではなく、おいしいと思って食べてもらいたかった。 鰆を塩麹へ漬け、豆腐のもろみ漬けは、柿と春菊の白和えにした。出汁には焼いた長ねぎの甘みを加える。 献立を考えているうちに、気づけば煌の好きそうな味ばかり選んでいた。 最後の客を見送り、三席のうち一席だけに箸を置く。 まだ約束の時間まで十分ある。それでも、糀は火加減を確かめ、器の位置を直し、また時計を見た。 待っているのだ。 そう認めると、急に落ち着かなくなった。 約束の時刻より少し早く、引き戸が開いた。「こんばんは」 煌は一人だった。いつもと同じ上質なスーツ姿だが、顔にはまだ少し疲れが残っている。「本当に、毎日来るんですね」「そのつもりでお願いしました」 当たり前のように答える煌を見て、糀は困った。店へ来ないでほしいと言った時は、あれほど寂しかった。それなのに、毎日会えると決まった途端、どう接すればいいのか分からない。「体調は、もう大丈夫ですか」「昨日より、ずっと」 煌は用意された一席へ座った。 糀は、鰆の塩麹焼きと白和えを出した。 煌は一口ずつ、味を確かめるように食べた。昨日までほとんど食べられなかった人とは思えないほど、箸は止まらなかった。 鰆を飲み込んだ煌の口元が、ふっと緩んだ。目元まで柔らかくなり、心から幸せそうな顔をしている。 こんな顔をする人だっ
「婚約が終わるまでの、食事だけの契約です。どうでしょうか」 糀は、すぐには答えられなかった。 煌の前には、空になった皿がある。さっきまで青白かった顔にも、少しずつ血の気が戻っていた。 食べてもらえて、ほっとした。 それなのに、明日も、その次の日も自分が食事を作るところを想像すると、胸が苦しくなった。 料理人と客なら、会い続けてもいいのだろうか。 けれど、糀にとって料理を作ることは、ただ品物を渡すことではない。食べる人の顔を思い浮かべ、体調を考え、何なら口にできるかを考える。煌のためなら、きっと毎回、今日のように心配する。 婚約者がいる人を思いながら、毎日料理を作ることになる。 「……ずるいです」 ようやく出たのは、返事ではなかった。 煌がわずかに眉を寄せた。 「何がですか」 「私の料理しか食べられないなんて言われて、倒れたところまで見たら、断れません」 言葉にすると、腹が立ってきた。 「私はまだ、あなたを許していません。それなのに、食事を作らなければ、また倒れるかもしれないと思わせるんですか」 「あなたに責任を負わせるつもりはありません」 「でも、もう心配してるんです」 声が震えた。 放っておけばいいと思ったのに、鮭を焼き、骨を取り、小さなおにぎりを握った。ここまで急いで来たのも、煌を失いたくなかったからだ。 「何も食べられないままなのに、知らないふりなんてできません」 煌はしばらく黙って、糀を見つめた。 「すみません」 低い声だった。 「ですが、断られたくないと思っているのも事実です」 糀は顔を上げた。 「私は、あなたの料理が必要です。それだけではなく、あなたに会いたい」 煌は目を逸らさなかった。 「料理人と客でもいい。あなたに会えなくなるのは嫌です」 低くなった声を聞いた瞬間、店で唇を重ねた時の煌の顔を思い出した。 あの夜の続きをしたいと言われて、自分も同じ気持ちだと思った。婚約者のことを知らなかったとはいえ、あの気持ちまで嘘にはできない。 頬が熱くなり、糀は煌から目を逸らした。 勝手だと思った。 婚約を黙っていたくせに、そばにいたいと言う。けれど、きれいな理由だけを並べず、自分の欲を認めた煌を嫌いにはなれなかった。 むしろ、会いたいと言われたことが嬉
「三浦様、突然のお電話を申し訳ありません」 電話をかけてきたのは、煌の秘書だった。 「社長が、この二日、ほとんど何も召し上がっていません。先ほど、会議中に倒れました」 「倒れた?」 「意識はあります。今は社内の医務室です」 糀はスマートフォンを強く握った。 婚約を隠していた煌が悪い。これだけ傷つけられたのだから、放っておけばいい。 そう思おうとしたのに、できなかった。 「すぐに行きます」 電話を切ると、玲奈が糀を見ていた。 「今の電話、誰から?」 「煌さんの秘書です。煌さんが倒れたそうです」 玲奈の顔色が変わった。すぐにバッグからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。 「私には、何も来ていないわ」 もう一度画面を確かめた玲奈が、糀をにらんだ。 「私が婚約者よ。煌さんが倒れたなら、最初に私へ連絡するのが当然でしょう。どうして私ではなく、あなたなの?」 糀にも答えられなかった。けれど、秘書が頼ったのは、煌の婚約者ではなく糀だった。 「会わないと言ったばかりでしょう。行かせないわ」 「倒れた人を放ってはおけません」 「そうやって、また煌さんの気を引くつもり?」 「違います。私は料理人です。食べられない人を、放っておけません」 糀が扉へ向かうと、玲奈の声が背中を追ってきた。 「では、また勝負で。あなたの店が、それまで残っていればね」 「店は、潰させません」 糀は振り返らず、試食室を出た。 *** 店へ戻ると、味噌に漬けておいた鮭を焼いた。骨を丁寧に取り、ほぐした身を入れて、小さなおにぎりを握る。二日も食べていないなら、一度にたくさんは食べられない。 腹が立っている。まだ許していない。 それでも、煌に食べてほしかった。 医務室へ入ると、煌は白いベッドに腰掛け、スマートフォンで仕事の連絡を返していた。顔色は悪い。それでも糀を見ると、驚いたように立ち上がろうとした。 「寝ていてください」 「どうして、ここへ」 「何も食べていないと聞きました」 煌が秘書を見た。 「余計なことを」 「怒るなら、食べてからにしてください」 糀がおにぎりを差し出すと、煌は黙って受け取った。 一口食べたところで、煌の手が止まった。 「この具……」 「どうしました?」 煌は、おにぎりの中
「どうするの?」 玲奈は、糀が迷うことまで分かっていたように微笑んでいる。 煌を諦めれば、『澄乃』の名も祖母の資料も戻ってくる。 もう九条と争う必要もない。 それが一番いいのかもしれない。 「私は……」 糀は答えられず、うつむいた。 「迷うことなんてないでしょう。煌さんと二度と会わない。それだけで、あなたは欲しかったものを取り戻せるのよ」 玲奈は糀に考える隙を与えず、畳みかけた。 「煌さんだって、あなたがいなくなれば私のところへ戻る。すべて元どおりになるの」 本当に、そうなのだろうか。 糀は顔を上げた。 「その前に、一つ聞いてもいいですか」 「何?」 「玲奈さんも、煌さんのことが好きなんですか」 玲奈の笑みが止まった。 すぐに答えると思っていた。けれど、玲奈はわずかに目を見開き、糀から視線を逸らした。 「……私は、煌さんの婚約者よ」 「それは知っています」 「なら、聞く必要はないでしょう」 好きだとは言わなかった。 玲奈ほど美しく、家柄も立場も申し分のない人なのに、「好き」とは言わず、自分が婚約者だということしか言わなかった。 玲奈は、煌が好きなのだ。 けれど、煌も同じだとは思っていない。 それなら、自分は玲奈から煌を奪うことになるのだろうか。 修司と美咲にされたことを、今度は自分が玲奈にするのだろうか。 やはり、煌を諦めるべきなのかもしれない。 玲奈は家同士が認めた正式な婚約者だ。糀は離婚したばかりで、蒼太との関係も、三席の店も、ようやく取り戻し始めたところだった。 これ以上、難しい恋へ自分から踏み込む必要はない。 婚約を隠されていたことも、まだ許せなかった。この先、もう一度信じられるのかも分からない。 今ここで約束すれば、もう傷つかずに済む。 そう思った瞬間、煌が座っていた一席が浮かんだ。 《ちゃんと、何か食べましたか》 打ったのに送れなかった言葉まで思い出す。 会わなければ、忘れられるのだろうか。 煌が何を食べたのか、今どこにいるのか、もう気にせずにいられるのだろうか。 無理だった。 「……私も、煌さんが好きです」 玲奈の顔から、笑みが消えた。 「何を言っているの。私が婚約者なのよ」 「分かっています」 糀は、震えそうにな







